ふとテレビをつけると、バレーボール日本代表男子の試合をやっていた。
相手はフィンランド。相手が強いかどうかはわからなかったが、欧州の選手だけあってどの選手もめちゃくちゃでかい。上品な青が映えるユニフォームが、余計に動かぬ壁のような迫力をかもしだしていた。
日本代表のメンバーを見ていると、石川をはじめ西田、高橋藍とここ数年バレーボール界を引っ張ってきた見慣れた顔ぶれが奮闘していた。
見始めたとき、日本2セット、フィンランド1セットと日本優勢だった。4セットはシーソーゲームで試合が進んでいった。数日前のニュースでサーブに力を入れていると取材していた。その通り、ギリギリのゲームの中でも厳しいジャンプサーブでネットにかかるかかからないかの高さのサーブを狙い続けていた。しかし4セット目はなかなか決めきれず終始劣勢だった。
すると日本は西田に変え、普段見慣れない選手が投入された。
一際華奢にみえ、癖っ毛で細い目の、宮浦選手だった。
鮮明に覚えているのは、4年前。早稲田大学が日本一を決めた試合を見にいった時に、
淡々と、それでいて豪快にスパイクを決めていく宮浦選手を見た。
スパイクモーションは一切の無駄がなく、対空時間は他のどの選手よりも圧倒的。
空中でボールを待っている姿は、もはや彫刻のように美しかったことを覚えている。
そこから、どこでバレーボールをしているとかは全然追ってはいなかったが、
出てきた瞬間にすぐにピンときた。
そして相変わらずあの美しいスパイクフォームで、かつより豪快な手のふりに成長していた。
しかし、フィンランドはブロックの高さが高く、2枚ブロックがきっちり揃うと、宮浦選手のスパイクははたき落とされてしまっていた。
大学では敵なしの姿しか見ていなかったので、奮闘している姿がとても新鮮に感じた。
ここで、バレーボールを見ているのに、世の中のSNS批評について思い浮かんだ。
今の姿だけを見て、人は評価する。
知っている人はその人の影の血の滲むような努力を知っているから、今うまくいっていない現状を見ても、「今は調子が悪いんだな」「頑張れ」と素直に応援できるが、
知らない人からすると「知らないけど下手そう」とか「うまくいってないんだから変えろ」とかしまいには「声が」「見た目が」とか関係ないことまで紐づけようとしてしまうのではないか。要はどうでもいい理由をつけて、よく知らない人を心無い言葉でけなしてしまう。もし、自分が言われる立場だったらとんでもなく悲しいし、不特定多数で自分が知りもしない人から知ってるようなこと言われるのって腹がたってしまうだろうな、と思う。
SNSで顔を見せずに、間接的に強い言葉を発せてしまう世の中は、知らず知らずに傷ついてしまう人が増えてしまうような気がしてとても怖くなってしまった。
そう考えていつの間にか下を向いて鬱々としていると、わーっという歓声がテレビから聞こえた。
どうやら日本のスパイクが決まったようだった。スローで映し出されたその姿は、その美しいフォームから豪快に腕を振り下ろし、拳を固めてよろこぶ宮浦選手だった。
その瞬間、思わず身を乗り出してガッツポーズをした。同時にさっきまでうつうつと思っていた考えに答えがでたような気がした。
自分以外に人間はとてつもない数いて、その人たちは数えきれないほどの思考や思いを思っては発している。自分ですら、今日一日どのくらいの思考をしたかは数えられない。その人たち全ての考えをポジティブな方向に向けさせるのは到底できることではないと思った。その瞬間瞬間で変わってしまうものであるし、その一瞬一瞬ではネガティブなものもポジティブなものも思い浮かんでは消え、言っては忘れを繰り返し、だんだんとその人の意見・軸になっていく。その一瞬の言葉は、よく練られていない喋り言葉のため、人を傷つけてしまう可能性が高い危うさをもっている。だからそれをコントロールするのは当然無理だし、反応する必要はないものだと思った。そして、宮浦選手含めスポーツ選手は間違いなく日々の血の滲む練習を耐えて試合に臨んでいる。それを知っている人もいれば知らない人もいて、今一瞬だけを見ていろんな反応が生まれるだろう。だが結局、信じるべきは自分であり、周りがどんな反応をしようが自分の努力と、今この瞬間を頑張っているという自覚は自分にしかわからないものだ。だから、自分が胸を張って自分は本気で今に臨んでいる!と言えれば、誰がなんと言おうと関係ないな、と思った。そしてそれは、必ず人に伝わり、その量は多いかもしれないしごくわずかかもしれないが、自分を信じてくれる人があらわれるんだ、と思った。今、自分が、宮浦選手にエールを送っているように。
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